東日本大震災−野田村復興(1)

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内容更新日:2011.06.07.
レイアウト更新日 : 2016.04.24.

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東日本大震災−野田村の津波被害(2)
東日本大震災−野田村復興(2)


 このページは、小さな村にとっては大きな災害となった野田村の立ち直る姿を知りたいというネットユーザからの要望により、私的な観点ではあるものの自分のできる範囲だけでも復興の記録を残そうと立ち上げたものです。私自身野田村のママさんバレーチームのコーチを引き受けており、野田村のバレー界には30年のお付き合いがあるため、世間で言うボランティアとしてではなく我がチームの一員として復興に関与すべきであると考えております。従ってこのページの内容もバレーに関する記述が中心になってくるものと思われますが、被災地の一部の人達が生活を取り戻す様子を伝えることはできると思います。残念ながらページ製作にあまり労力をさく事はできないため携帯向けのページは作れませんが、ご了承下さい。
 4月10日撮影

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 宇部町中野製材所跡地に集められた瓦礫。瓦礫と言っても村民の生活の想い出が詰まったものばかり。無念の山なのである。
 ボランティアや自衛隊の活動も大変重要ですが、一番大切なのは被災した人達が元気な生活を取り戻す事です。野田村では現在どうなっているか私にはわかりませんが、県南被災地では被災者を雇用した復興事業が動き出しているようで、大変喜ばしいことだと思っています。一方で、災害直後に私がボランティア者の側からかけられた「ボランティア活動をするなら、ちゃんと役場で受付してからにしてくれ。現場は混乱して迷惑だ。」という言葉に、とてもがっかりしています。知り合いからは「当事者だって言えばいいじゃないか」と言われましたが、ほとんど被害のなかった私が当事者だなどと生意気な事を言えるはずもありません。皆がそうだとは思いませんが、ボランティアは人を助けるのだから「偉いんだ」といううぬぼれた考えに至ることは危険だと思います。自社の店舗に「当社はどこどこで炊き出し等これこれの支援を行いました」と貼り紙をしている企業が近くにもありましたが、支援を己の宣伝に使う姿、ボランティアを自慢する姿、何か今の日本を象徴しているようで、残念に思っています。
 そんな事もあって私は、自治体のボランティア募集には応じず、個人として活動する事を決めました。ボランティアに応募するということは、支援する相手とはその時だけのお付き合いです。しかし自分にはもっと関係の深い人々がいるのです。亡くなった仲間も何人かいます。個人として支援に関わることは、古くからのお付き合いがあり、これから一生のお付き合いがあるのです。それだけに、自分の一挙一動に大きな責任があるのです。直接被災者と関係はないけれども災害を知って何とか手助けしたいと、ボランティアに参加なさっている方も多いと思います。大変有難いことです。でも、せっかく現地にお出で下さったのならば、現地にはいろいろな思いで動いている人達がいる事も知っていただきたい。私も自分の感じていることが全てだとは思っていませんし、家を流された人の気持ちが分かっているかと言われれば正直分かっていません。むしろ、出会った一人一人と感情をくみ交わし、理解の努力を怠らない事が毎日だと思っています。ボランティアも被災者も、その積み重ねが復興の原動力になるのではないでしょうか。
 4月15日撮影

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 いつ何時でも野田に向かえるよう、七つならぬ五つ道具を車に積みっぱなしにしている。泥を掃き出す自在箒、デッキブラシ、掃除機、ドラムリール、そしてこのために買った高圧洗浄機。

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 愛宕山の方から鳥居の向こう側、ついこの間まで野田村の商店街が並んでいた目抜き通りを見る。

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 鳥居の下に立つと、こんな景色。右側の赤い屋根の大きい建物が、私が手伝いに行っている呉服屋の「徳屋」。

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 被災時、岩手銀行屋上からヘリで助けられた人もいたと聞く。徳屋より先は何軒か形は残っていたが使える状態ではなく、岩銀の鉄筋建物を残して全て取り壊されてしまった。知っている人が見れば、何と寂しい景色なことか。

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 上の写真の通りに直交する商店街。瓦礫の山だったが、今はすっかり片付けられている。営業しているのは手前の理容室だけで、その向こうの伊東薬局、文具の中健、呉服の中伊、野田村唯一のスーパー・マミーストアも瓦礫で店内が破壊されて閉鎖中。マミーストアは辛うじてプレハブの仮店舗を建てて営業していた。通りの右側はほとんど全壊状態。

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 愛宕山から見る。

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 実は今手伝いに行っている所は、私がコーチを受け持っているママさんバレーチームの監督の家です。呉服店なのですが、1階天井近くまで水に浸って商品はほとんどが海水を吸って泥まみれ。建物は瓦礫が押し寄せた先端にあり、店舗の前面が壊れただけですんだため検査も通って使用可能。被災直後に行った時は、泥を掻き出しと売り物にならない商品の廃棄で、角スコップ・ネコ車・デッキブラシが大活躍。2週目頃は台所の棚の中の”お宝”食器類を、出しては投げ。フタの閉まった鉄製の箱の中まで海水がタポンタポンに入り込んでいて、どこから入ったのかと首をひねっておりました。一月を過ぎてこの日は、店頭に並べてあった洋服の泥をブラシで洗い落として洗濯機をかけておりました。何日かかるのでしょう。私は泥払いを手伝っていましたが、金具類に塩がこびり付いて錆びてしまっているものもあったため、洗濯を待てないと金具のついた服だけ水洗い。まだまだこのような先の見えない状態なので、バレーのバの字も口にできない雰囲気です。でも、復興の様子をネット配信してほしいとの要望があったことからバレーチームの復興の道程を残すことを思い立ち、その目的からここの様子も紹介したい旨話をして了解をもらいました。野田村バレー協会の役員でもある監督と震災後バレーの話をしたのは初めてでしたが、1ヶ月が過ぎてもまだそれどころではないというのが実状です。私は野田以外でバレーのできる場を持っているので比較してしまうのですが、久慈や大野では多くの人達がバレーを再開しているのに対して野田ではバの字がまだ出てこないというのは、野田村民にとって精神的打撃がいかに大きいかを物語っているようです。野田にバレーの歓喜の声が戻るのは、まだまだ半年一年といった先なのかもしれません。でも、久慈市民体育大会の実施について市民からは、何でもかんでも取り止めにしてしまっていてはかえって元気が出ないという声も聞かれます。ママさんバレーチームのコーチとしては、厳しい練習に立ち向かうことで日頃の事を忘れて元気を取り戻すこともできると思うので、なるべく早い段階で練習は再開できた方が良いと考えています。
 4月17日撮影
 今日は大野へ行った帰り、施設がすっかり流されたと聞いていた久慈湾北側の石油備蓄基地の様子を見てきました。報道によると、日本全体での3日分の消費量を備蓄をしている地下の施設は津波が来る前に閉鎖したため被害はなかったけれども、地上の施設は全壊したため備蓄分を利用できない状態だとの事。地下施設内に溜まった水を汲み出す施設も流されてしまったため、水の汲み出しが問題になっているそうです。基地に通じる道路沿いの堤防も波が越えたため近くの民家も浸水していたようで、確認していませんが流された家もあったかもしれません。

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 すぐ近くの久慈市観光スポットの一つ、水族館「もぐらんぴあ」もこの通り。

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 備蓄基地施設。

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 タンクも転んでいる。

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 備蓄基地の船。道路をふさいでいるということは、津波で流されてきたもの。

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 堤防も壊れている所が数ヶ所あった。野田十府ヶ浦の堤防は引き波で壊れたが、ここでは押し波で壊れている。道路も何ヶ所か舗装の剥がれていたが、震災後1ヶ月が過ぎ路上の瓦礫や泥はきれいに片付けられていた。

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 埠頭にある工場。1階のパネルはほとんどなくなっている。
 5月3〜5日
 関東の知り合いが、復興支援に来てくれました。野田村は被害の規模は県南より小さいでしょうが、いくらテレビで見ていても実際に見ると違うなあと申しておりました。ママさんバレーチーム監督宅の手伝いをしてもらいました。もっとする事があるんじゃないか(もっと被害のひどい所を手伝いたい)と言ったのですが、私も知らない所へ行くよりはつながりのある所をやってもらった方がいいと判断しました。気持ちは解るけど、後の様子を私から伝えることもできるしその方が手伝った方も手伝われた方も嬉しいと思うのです。
 5月15日
 以前、私の母がお世話になった横浜の佐藤雪子さんから、被災地の復興に役立ててくださいと義援金10万円をお預かりしました。横浜の街頭で渡すよりも被災地の人に直接渡したほうが、使い道が見えて安心との事。私もこれを役場等に持って行くよりも私がコーチをしているママさんバレーチーム「わさらび」のために使わせて下さいということで、預かりました。
 5月22日
 「わさらび」、震災後初めての集会。佐藤さんからの義援金を手渡しました。監督やコーチから特に今後の練習等について話はせず(というか、話を出せる雰囲気でなかった)雑談会になってしまったようですが、ま、いいか。まず皆で集まって、無事を喜び合ったということで。
 6月1日
 野田村バレー協会、震災後初の練習会。ソフトバレー、ママさんバレー、若者6人制の合同の練習。ソフトバレーでは津波で何人か亡くなられたことから追悼の練習会という事だったのですが、残念ながら私は出られませんでした。横浜の佐藤さんも以前野田に来られた時私はソフトバレーに誘ったのですが、一緒にプレーした中野中さんが70歳と聞いて感心していたのです。中さんが亡くなられたと聞いて、佐藤さんも残念がられておいででした。私も30年前から一緒にバレーをやってきた大下フニさんを失い、とても残念です。改めてお悔やみ申し上げます。
 6月4日
 「わさらび」、ママさん6人+監督・コーチ・宴会部長の男衆3人も揃い、震災後初練習。村営体育館は支援物資で満杯のため、中学校体育館が練習の場。少し人数がいてゲームができるかなとネットを張ったけれど、使わず。ウォームアップと6人シートレシーブで終了。最後にコーチから今後の練習の内容について次のような話をしました。
 この状況下での練習の内容について

  @まず体を動かしましょう。
  Aバレー勘を取り戻す練習をする。

 Aについては、ママさんバレーの場合はほとんど基本を学ぶチャンスがなかった人で構成されていることから、各プレーの基本を一つ一つ丁寧に訓練することで勘を戻したい。基本練習というのは、コーチが与えるポイントを1本1本しっかり意識しながらするものなので、気持ちを集中させることで日頃の事は忘れてほしい。また、今から基本をしっかり訓練すれば、将来初めて試合に出られる状況になった時に、「まあ負けても出られたからいいや」ではなく「まともに試合をしたい」と思える。但し、@を先にAを後にすると気持ちを集中できないから、A基本練習を先にやってそれからゲームを楽しむ、というパターンでしばらく続けることになる。
 なお、コーチは6月後半、出張で来られなくなる予定なので、次の練習の時にポイントや雰囲気の作り方等について指示する。
 村営体育館は水が入りフロアを張り替えるのでしばらく使えないけれど、ボール等は台の上にあったため水に浸からずに済んだ模様。練習日は震災前は火・木だったけれど、しばらくは土曜日の週1回にするそうです。若い人達は忙しくて来れない人が多く、しばらく試合は出られそうにないとの事。でも年末に向けて県の大会も参加チームが少なくても実施の方向で動いているようなので、わさらびとしても出たいという声が聞かれました。今日の練習を見ても、少し勘は狂ってるかなと思う場面はあってもレシーブはガンガン食らいついてくるし、皆さん、試合への意欲は失せてはいないようです。